考:「いただきます」って言ってますか? 「給食や外食では不要」ラジオで大論争

 なんか盛り上がってるんで言及(爆)。
 といっても……なんていうか、「挨拶」「金」「宗教」「教育」の問題が混ざってるんでよく分からなくなってるよーな(汗)。


 まず自分について。
 自分はいつもひとりで食べるので普段は言わないです。他の人と食べるときは相手に合わせるかな。母親が作ったときは「いただきます」って言うけど。
 「いただきます」って、基本的には「挨拶」だと思う。挨拶は相手がどう受け止めるか次第。相手が良く感じたり、雰囲気が良くなるのなら使った方がいいんだけど、必要性がないなら使わなくてもいいと思う。
 この記事の場合、「母親」が言っているけどそれは「教育」の問題で、その教育を受けて子供が「やっぱ言わない」と判断したらそれはそれで、だと思う。職場でだって「おはようございます」を言う職場と言わない職場があるわけで、相手が不快に感じる「おはようございます」に意味はないわけで。


 お金の問題としては、結局お金出せばごはんは食べられるし、実際にはそれ以外にも必要、ってことだったらそのコストに対しても代価を払うべき、ってことなのかな。
 たとえばコンビニ弁当なんかは新鮮さを保つために日本中のトラック運ちゃんががんばってるわけで、そのために事故とかも絶え間なく起きてるわけで、そういう人達に感謝するくらいなら値上げ許すくらいの方がいいような。


 宗教的な問題……というか、感謝で済むのかなぁって気も(汗)。わてが動物だったらどんなに感謝されても食べられたくないぞ(爆)。なんか、相撲で負けた力士を引き上げるくらい偽善的な気がするなぁ……。
 あ、でも動物的な世界で言えば「弱肉強食」が倫理観なんだと思うんで、むしろ「くそっ、負けたか……なら仕方ない、遠慮なく俺を食え!」とか思うかもしれん(爆)。
 まぁそういう動物の気持ちを人間に置き換えた時に、その気持ちに折り合いを付けるために「いただきます」っていう言葉ある、ってことなのかも。


 つまり、「いただきます」っていう言葉は「今食べているごはんは実際のコストよりも低い代価を支払っています、ごめんなさい」っていう気持ちで自分に折り合いを付けるための言葉なのかもしれない。
 この意味での「いただきます」がなくなると、その気持ち、後ろめたさそのものがなくなっちゃう、っていうことが危惧されてるのかも。「考え方の方向性」かな。行動結果ではなく、人の考え方、その方向性が「いい方向」に進んで欲しい、っていうのが、「いただきます」がなくなることへの反論の、重要なポイントなのかも。