放浪息子 第11話「放浪息子はどこまでも」(終)

 文化祭で再び倒錯劇を行う二鳥達。時を経た二鳥は、少しずつ男になっていく――。


 最終回。
 とても綺麗な、丁寧な作品だった。
 まず絵作り完璧すぎ。作画は良かったし、水彩画のような塗りがとても作風に合っていたし、全体的な絵作りがすごすぎ。この絵作りがあったからこそ、本作は美しい作品となったと思う。
 話もとても丁寧だった。自分の考えを持って生き生きとしているキャラクター達が、中学生の3年間を悩みながら成長していく、その様は本当に素晴らしかった。それに、話の軸は結構ハードなのに、笑いどころがちりばめられた脚本になっていて、深刻になりすぎずに見ることができたのもとても良かった。エンターテイメントとしても良くできていたわ。


 でもね。
 話としては不満が(汗)。
 結局二鳥君は女の子になりたかったわけじゃないんだよね……。男の子として頼りなさ過ぎて、自分に自信のなかった二鳥君。でも女の子としての自分の強みを活かした時、男の子の自分よりも強くなれた。だから、女の子の自分でいる方が、自分らしく生きられたのかも。
 でもそれは一時与えられた、シンデレラのような存在。大人の男へと変貌することで時計は12時を回り、しかしシンデレラから大人の男へと変わった二鳥君は、自分らしく生きるために女性性を必要としなくなったわけで……。
 その成長物語ということはよく分かる。よく分かるから、感動した。だけどこういう、青春の一ページで終わった的な話は嫌いなんだよなぁ……。だって、二鳥君は元々本当に女性になりたかったわけじゃないし、有賀君や高槻さんはこれからも悩み続けるだろうし、それを一過性のものとして切り取ってしまうのはなんか酷いという気がするのですが。
 そういう意味では、二鳥君が男の子として成長したという話よりも、高槻さんがこれから男の子として生きていく話が見たかったなぁというか。二鳥君は主人公でありだからこそ成長して克服したけれども、見たかったのは主人公ではない立場の人達なのかも。


 そういう風に思うのは、つまり自分もそういう境遇だったわけで、そんな自分の過去を、そして今も抱えている気持ちを解決してくれたり、あり得たかもしれない別の今を夢想させて欲しいと期待しているからなわけで。
 本作の二鳥君と有賀君を足したような性格、ポジションにいた自分にとって、だからこそ強い共感を得ることができて、二鳥君のようになれなかった自分にとっては二鳥君がとてもとてもうらやましく思えたりもして、そんな能力を失ってしまうことにさほど絶望していない二鳥君に、だからがっかりしてしまったわけで。
 でもそのがっかりを除けば、素晴らしい絵と共感できる話にがっつり引き込まれてしまった自分がいたわけで。とにもかくにも、素晴らしい作品であったことにはかわりないです。